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シンコペーテッド・マーチ「明日に向って」

更新日:5月16日

Syncopated March ” Toward Tomorrow ” 岩井 直溥  Naohiro Iwai  (1923-2014 )


-Introduction-

本邦吹奏楽界において「全日本吹奏楽コンクール」の存在とその影響の大きさには永い歴史があり、それは現在でも全く変わっていない。

それは本来からすれば異常とも云える状況である。その状況下で毎年新たな楽曲が登場する「課題曲」- もちろん「コンクール」があるがゆえに存在しているものだが、吹奏楽に接した者に決して小さくはない影響と想い出とを与えていることは事実だろう。


■課題曲「明日に向って」と「1972年」という時代

✔「明日に向かって」概説

後に「吹奏楽ポップスの父」「ニュー・サウンズ・イン・ブラスの生みの親」と称され敬愛される超人気作・編曲家にして、吹奏楽界の重鎮中の重鎮となる岩井 直溥が、1972年度全日本吹奏楽コンクール・中学の部課題曲として上梓した ”モダン・マーチ” の傑作である。

1970年度より全日本吹奏楽コンクール全国大会は順位制から金・銀・銅のグループ表彰制に移行していた。全国大会はフェスティヴァル的な色彩を強めたとも評され、当時のバンドジャーナル誌を読むと吹奏楽へ ”より音楽的に、より個性的に” との要請が高まっていたように感じられる。

技術的なレベルも向上して自由曲も一層幅広くさまざまな楽曲が演奏されるようになり、その難度も急激に上昇してきた頃である。この年はまさに本土復帰が成ったばかりの沖縄から、真和志中 (指揮:屋比久 勲) が本作 「明日に向って」と「トッカータとフーガ ニ短調」を引っ提げて全国大会に初出場。その豊かな ”沖縄サウンド” で聴く者を魅了し、見事金賞を射止め話題をさらっている。


✔「吹奏楽ポップス元年」の1972年

この1972年は吹奏楽界にとってさらにエポック・メイキングな年であった。

今となっては本邦吹奏楽の最大の特徴の一つである ”本格的なポップス演奏” をスタートさせた 「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」 シリーズが登場したのだ。一流アレンジャーによる本格的なスコアと音源 (LPレコード) のセットという画期的なこの企画は徐々に広がりを見せ、ほどなく吹奏楽界を席巻したのである。

 

折しも1960-1970年代は洋楽の名曲に溢れ、それが怒濤の如く流れ込んできた豊かな ”歌” の時代。伴奏も器楽をふんだんに用いたゴージャスなものが多く、歌詞のないアレンジを施しても褪せない魅力を放つ楽曲が多かった。加えて ”インストゥルメンタル” のジャンル自体も、ポール・モーリア楽団をはじめとして高い人気を誇っていたのだから、タイミングは絶好である。

 

かくして吹奏楽界はプレーヤーを楽しませることはもちろん、「お堅いクラシックはよくわからん!」という聴衆に対しても演奏を楽しんでもらえる ”ナウいポップス” (超死語・笑)という武器を得たのだった。

この意義の大きさたるや…測り知れない!


✔コンクール全国大会の場で「吹奏楽ポップス」をお披露目

この年はコンクール全国大会でも 岩井 直溥cond. 東京佼成吹奏楽団が、審査結果発表までの時間を利用して ”賛助出演” のステージに上り、リリース間もない ”ニュー・サウンズ” のナンバーを含めた数曲のポップス曲を演奏した模様である。

未だ保守的な時代であり、この演奏を聴いたコンクール出演者は「神聖なコンクールの場に果たしてふさわしいのか…?」と戸惑っている。しかし同時に、吹奏楽が奏でるポップスの愉しさも理屈抜きに伝わったようだ。



そしてこのステージでは何と「”明日に向って”ポップス・バージョン」も披露されたとのことである。聴衆はさぞや目を丸くしたことだろうし、そして大いにウケたことだろう。凄い!そしてこの後、吹奏楽コンクールにはポップス課題曲が次々と登場することとなるが、岩井 直溥はその立役者となって「未来への展開」「メインストリートで」「かぞえうた」「素敵な日々」などの秀作を送り出していくのである。

岩井 直溥は逝去の前年である2013年度の課題曲として、「復興への序曲『夢の明日に』」も提供した。90歳で亡くなったその最晩年まで活躍を続けたのである。


■楽曲解説

「まずこの曲は ”明るくて楽しい” を主眼に置いて作りましたので、全体によくリズムに乗って、明るい音色で演奏してください。全般的な注意としては『シンコペーション』が多く使われていますので、このリズムの乗り方を研究し、また『ハーモニー』は Maj 7あるいはMaj 9 が主体になっていますので、このハーモニーのバランスには気をつけてください。(中略)またタイトルの『明日に向って』ということからも、従来の『マーチ』のイメージからはかなり異なった『コンサート・マーチ』ですので、新しい感覚で躍動的に、そしてあまり堅くならないように。」

 

上記コメントにも ”ニュー・サウンズ” の生まれたこの1972年に、”より音楽的に、より個性的に” と吹奏楽に新風・新機軸を吹き込もうとする岩井 直溥の並々ならぬ気炎が感じられる。その結果、その標題からは意外なほどかけ離れた、最高にポップでイカしたマーチが登場したのである。


金管+Sax. のリズミックなユニゾンに始まる序奏部、これを受けるシンコペーションを効かせた木管群が曲の特徴を端的に提示している。豊かに鳴り響く全合奏のファンファーレ風楽句に続き木管群の16分音符がキラキラと輝き、これを Timpani が ”ズドドン” とキメる-

実にカッコ良い序奏部を形成しているのだ。

 

ベルトーン風に上昇する音型で頂点を迎えたのち、モダンなハーモニーを響かせて躍動する伴奏が現れるのが、大変に印象的である。

リズミックにそしてバランスよくハモれたなら、この部分の斬新さ、カッコ良さにゾクゾクさせられること請合いだ。


主部は上向系の湧き上がるような主題に、Euphonium のふくよかな対旋律と木管のカウンターが絡んで立体的な音楽に始まる。これに続くシンコペーションを効かせ ”コードで動く” 楽句の応酬にも心躍らされてしまう。


スネアと Xylophone のギャロップに導かれて主題が再現され、ポップスの輝きを示す分厚いサウンドを響かせると、エキサイティングな 3/8+3/8+2/8 のリズムで前半を仕舞い、Trio に入る。

Trio はビギンのリズム-。これに乗ってHorn (+Sax., Euphonium )に旋律を奏でさせるくだりはまさに岩井節の真骨頂!優雅で、どこかセンチメンタルな旋律がとても素敵だ。


リピートして木管楽器のシンコペーション伴奏に華やぐと、鮮烈なファンファーレが鳴り響き、G.P. に続くフル・テュッティによる劇的な二分音符フェルマータ3発に導かれ、終結部へ-。

コーダは大きなビートを示すシンコペーションのアクセントに続いて爽快な打楽器ソリ、そして冒頭のユニゾン再現から、Trio 前の 3/8+3/8+2/8 のリズムを再び打ち込んで、帰結感を充満させつつ曲を閉じる。


まだ私が九州に居た時分、コンサートの幕開けにこの曲を演奏したバンドがあった。

緞帳を上げると同時に曲を始めるオープニング(当時、九州で多かったスタイル)だったのだが、オープニングでのこの曲は想像以上にカッコ良かった!「時代」(=当時の流行)を感じさせる楽曲であることも事実だろうが、単に古臭い楽曲ではない。その輝きと躍動とを確りと捉えた好演をもっと聴きたいものだ。


■推奨音源

「テンポは ♩=144位としてありますが、(中略)あまり遅すぎたり、速すぎたりすると明るさや楽しさが出ませんので、その点にはよく注意してください。」

との作曲者指摘があるが、音源を聴き比べるとその意味がよく判る。ポップスの第一人者らしい、そしてのみならずオール・ジャンルの音楽演奏においてテンポ設定が如何に重要かということを端的に示唆する一言だ。

この観点から音源としては

高橋 良雄cond. 陸上自衛隊中央音楽隊

の演奏を推したい。


【その他の所有音源】

 野中 図洋和cond. 陸上自衛隊中央音楽隊

 岩井 直溥cond. 東京佼成ウインドオーケストラ

 汐澤 安彦cond. 東京アカデミック・ウインドオーケストラ

 加藤 良幸cond. 陸上自衛隊北部方面音楽隊

 鈴木 孝佳cond. TADウインドシンフォニー(Live)


■岩井先生が後進に託された吹奏楽への“願い”

「明日に向って」を作曲された頃から、岩井先生の吹奏楽コンクール(というより吹奏楽そのもの)に対する期待、想いというものは、ずっと一貫していると感じられる。

中でも、岩井先生がそれを最もハッキリと述べられたのは1977年の課題曲C「ディスコ・キッド」のバンドジャーナル誌における解説文だと思う。

 

岩井先生はそこで「演奏者の皆さんへ」「審査員諸氏へのお願い」「私の希望」の3つに分けて、吹奏楽とコンクールの抱える問題点を的確に指摘され、「音楽」活動としての吹奏楽に指針を与えておられる。

 

 「もっと若々しい個性的なバンドのカラーを打ち出すような演奏を思いきってやってください。(中略)多くのバンドが全部、ぶら下がりの既製服的演奏をするのでは、せっかくの青春がつまらないではありませんか。音楽は、ある限られた人の考えや意識的理念によって評価されるべきものではなく、それがクラシックであれポップスであれ、数多くの聴衆の判断によるものが尊重されるべきではないでしょうか。」

 

「寸分の隙もない演奏をしてはいるが、そこに人間としての味わいのない音楽よりも、多少とも荒削りではあるが感動性をもった音楽を作り、一人でも多くの人に喜んでもらえる演奏が音楽の本質ではないでしょうか。」



もう半世紀ほども前のコメントだが、今でも本質を突いていると思う。 

また岩井先生は常々「個性的で上品な演奏を」と仰っていたのだが、これも私の大好きな言葉だ。いくら 「個性的」 といっても、一方でその個性が広く認められ得るものでなければ意味がない。それを「上品」という言葉で見事に言い表しているのである。

「感動性のある音楽を!」というコメントとともに、岩井先生の真剣極まりない ”願い” には、深い共感を覚えてしまう。


-Epilogue-

ここからは完全な私の私見となる。

 

本邦の吹奏楽コンクールは「コンクール」と名のつくものとしては、そもそもかなり異質で、本来 ”音楽としての総合的な感動” を競うコンセプトにあるはずのもの、と思う。即ち決して各種技量を競うことに偏重したものではない。

課題曲ですら傾向の異なる(かつ、オーケストレーションをはじめ楽曲の質は必ずしも担保されていない)4~5曲があり、自由曲に至っては文字通り多様多岐に亘り、審査員が初めて耳にする曲も数多いという前提からして、吹奏楽コンクールはあくまで「 ”感動” を競い合うもの」であるはずなのだ。

(そうではないと云うのなら、例えば「課題曲は版指定のスーザのマーチ」「自由曲はこれも版指定の上、全てのバンドへ一律にホルストの1組・2組とメンデルスゾーンの序曲op.24による ”3曲ローテーション”(笑)を課す」といった運営に何故しないのか。その方がバンドの ”腕前” 自体は遥かに如実に、かつ厳密公平に測定できるだろうに…。)

 

吹奏楽コンクールというものが吹奏楽界全体にこれほど支持され隆盛を誇ってきたのは、演奏者にとって目に見える成果を手に入れられるという側面だけでなく、実際にコンクールという場を通じて、毎年毎年 ”新鮮” な、そして中には ”奇跡” ともいうべき感動の演奏が提示され、聴衆にアピールしてきたからに他ならないだろう。

 

しかし近年のコンクールでは「音楽的な感動」の側面が後退しているように思えてならない。コンクールを勝ち抜く、或いはいい賞をとるための演奏というものが蔓延していないか?個人のレベルが相当に上がり、これほどまでに整った演奏をする能力を有する割には、楽曲の魅力に肉薄する感動が乏しいバンドが少なくない-そんな思いを感じているのは私だけなのだろうか?

そしてコンクールで上位の成績を収めるそんな演奏イコール 「あるべき音楽、良い音楽、魅力ある音楽」 なのだと盲目的に信じられているような…そんな風潮が生まれていないだろうか?

加えて、一人一人の「音楽の喜び」に深みを与え、真に音楽を一生の友とする子供たちを増やすことに通じる活動ではなく、コンクールでの好成績を到達点として音楽をあっさり ”卒業” するか、或いは大人になってもコンクールでの好成績という到達点を求め続けずにいられないプレイヤーばかりを育てることになってはいないだろうか?


巧いこと、美しいことはいい音楽の前提或いは重大要素の一つではある。しかし ”感動” はそれだけでは成り立ち得ないものだ。

そもそもアマチュアは所詮プロより巧くはないのだから、巧いことが音楽的価値に等しいなら、アマチュアの演奏活動は全てマスターベーションで価値のないことになってしまう。

そして逆に言えば、巧いことが音楽的価値に等しいなら、世の中に数多存在する「プロ」の録音や演奏にすら、感動の乏しい駄演が少なからず存在することの説明もつかなくなる。

 

プロ・アマ問わず演奏者の真摯な努力をないがしろにしたり、冒涜するつもりは毛頭ない。しかし、そもそも音楽はそこに感動がなければ「無価値」である。

我々聴衆はそこにシビアでいいのだ。私は ”名門オケだから” ”有名な演奏家だから” ”評論家が褒めていたから”なんて理由で感動することなど当然ない。ましてや「吹奏楽コンクールで良い賞をとった」なんて事実だけで、感動できるはずなんて単純に思えるものか!

「好み」の問題はあるが、「感動」 は実際に音楽 (演奏) を聴いた ”自分” の中にこそ生じるか、否かなのだから。

 

演奏するからには(コンクールだろうが何だろうが)音楽の感動を与えてほしい。

吹奏楽コンクールで審査員を務められる方々には、このコンクールがあくまで良い音楽を評価する、感動のあるパフォーマンスを評価するものであることを、ハッキリご認識いただきたいと思う。コンクールの審査はそれを通じて行くべき道を照らし、吹奏楽を「感動性のある音楽」を志向する豊かな音楽形態として、健全に発展せしめていくものでなくてはならないはずだ。

 

 

演奏においては演奏者の個性を込めつつ、さまざまな音楽の表情を、それぞれの音楽の持つ魅力を、どこまでも掘下げて伝えてほしい。この努力は「良い賞が獲れたら終わる」という性質のものではなく、本質的には果てしなく追い求めていかねばならないものである。「感動の乏しい演奏」は「音程・音色・縦の線・バランスなどが整わない演奏」と同等に良くないのだ。同等に或いはそれ以上に罪深いと云ってもよいとも思う。

・喜怒哀楽如何なる場面でも、緊張も弛緩も、勇猛も卑屈も、イメージが如何に変わろうと

 も変化がなく (或いは乏しく) 表現が一本調子

・音楽の流れをより大きく捉えるフレージングが欠如

・狭小化したダイナミクスレンジ

・場面転換の稚拙さ、全体を俯瞰した設計の不足

・吹奏楽でしか聴かれない過剰に柔らかな発奏

(=時に明晰さとスピード感を欠いて聴こえる)

・「個性的に」と意識するあまりか、妙ちきりんな ”吹奏楽節” の陥穽に嵌ってしまっている  等々…

 

今、吹奏楽界では (コンクールにおいてだけでなく、そしてプロをも含めて) こんな状態の演奏が相当蔓延している。

要は「表現力」を発揮させるイメージの欠如、楽曲の「俯瞰(による構成)力」の欠如、に収斂するのではあるまいか。テクニック面も含め「完璧」な理想を求めれば文字通りキリがないが、それだけのテクニックがあるのならば、仮に若干の瑕はあろうとも、骨太でスケールの大きい、感動のスィートスポットをバシっと捉える演奏を聴かせてほしいものである。


吹奏楽がたくさんの人々に対して決して肩肘張ることなくカジュアルに 「音楽の感動を与えてくれる」 ごく身近な存在であり続けてくれることを、私はこれからも期待して已まない。

 

 

      <Originally Issued on 2013.4.19. / Revised on 2022.9.2. / Further Revised on 2023.12.30.>

 

 

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