-Introduction-
はるか昔- 中学生の頃は、私もとにかく吹奏楽コンクールで良い成績を収めることが目標だった。普門館に駒を進めることこそが文字通り “夢” だったし、他の団体がコンクールでどのような曲を選び、どのような演奏をし、如何なる成績を収めるかといったことが最大の関心事であった。
(結果としては、3年連続して大分県代表は射止めたものの、次の西部(現九州)大会では銅・銀・銅。特に部長を務めた中3時の銅は痛く、結果発表(表彰式)後は声をあげて泣いた。
今となっては、何であそこまでコンクールに夢中になっていたのかとも思うが…。)
■驚愕の自由曲
そんな中学生にとって自由曲に何を選ぶか、は極めて重大事である。中3の時は事実上自分が課題曲・自由曲ともに決められる立場だった(その年に交代したばかりの顧問は吹奏楽の指導経験がない音楽教員だった)から、色々と研究した。
全国大会の結果が掲載されたバンドジャーナルはもちろんのこと、過去の西部大会のプログラムなども、燃えるように熱い気持ちで見ていたものだ。
先輩方が遺した1974年の西部吹奏楽コンクールのプログラム、その中にひときわ眼を引く自由曲があった。その記載は…
革命現代舞劇「紅色娘子軍」 中国舞劇団 創作
まず第一に「作曲」ではなく「創作」…? 一体これはどういうことなのだろうか。
その後、この楽曲は私にとって長い間「謎」であった。
どんな曲なのか?中国にも吹奏楽曲があったのか?うーむ、聴いてみたい!
しかも演奏した筑紫丘高校(福岡支部代表)※は全国大会出場こそ逃したものの、この年3校しかなかった金賞を受賞している。凄い!
※因みに前年(1973年)の筑紫丘高校の自由曲(西部大会金賞)は、世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」(C.オルフ) で
あった。音楽的素養のなかった私は「せぞくかんたーたって何?おるふぅぅ?」で思考停止だった。
今でこそ大人気曲だが1973年当時にこの曲を演奏したというのは明らかに突き抜けている。( Musica Bellaさんの吹
奏楽コンクールデータベースによれば1969年東北大会で鶴岡工業が演奏した記録があり吹奏楽本邦初演ではないの
だが、"それにしても” である。)
そして「紅色娘子軍」の翌年(1975年)は交響詩「グアテマラの指輪」 (R. J. ドヴォラック)という、これまた誰も知らない
曲! 原題 El Anillo Guatemalteco、 かのドボルザークにこんな曲があったのかと思ったら Robert James Dvorak
(1919-2020) という作曲家の1970年初演の吹奏楽オリジナル曲 (「ディオニスソスの祭り」を中米風にした感じの曲)
なのであった。
当時の筑紫丘高校はおそろしくチャレンジングだったのだと思う。著作権問題も取り沙汰されない時代ではあったが、一体誰がこうした曲を見つけ、吹奏楽でやろうと思い、編曲したのだろうか???
( 因みに同高校は、その後1977年「アッピア街道の松 (レスピーギ)」、1978年「海 (ドビュッシー)」 で全国大会に出場している。)
■「紅色娘子軍」とは
「紅色娘子軍」 (Red Detachment of Women) は ”こうしょく じょうしぐん” と読む。
”文化大革命” のうねりが始まらんとする1964年に中国で作られたバレエであり、この時代の中国バレエとしては 「白毛女」(はくもうじょ)と並んで最も有名な作品である。
音楽は呉 祖強(Wu Zuquiang 1927-2022 )と杜 鳴心(Du Mingxin 1928- )を中心とした複数作曲家の共作。
このバレエの完成に向けては江青女史が直接関わっていたとも言われる。
また、「紅色娘子軍」 は幾度か映画化もされており、1970年にはバレエそのものをフィルムに収めたものも製作されている。
内容は時代背景を色濃く反映し、当時の中国に於ける国家・共産党賛美的なもの。
「悪辣な地主に虐待されていた少女 (呉清華) が共産党将校 (洪常青) に救われ、紅軍女性部隊(紅色娘子軍) に入隊する。この女性部隊を含む紅軍は、かの地主から村人を解放し、呉清華は復讐を果たす。この戦いの中で彼女は想いを寄せていた洪常青を失うこととなったが、自ら共産党に入党し、洪常青の意志を継ぐ。」
といった筋書きである。
【参考・出典】キネマ旬報Web 「紅色娘子軍」 https://www.kinejun.com/cinema/view/12275
相当後年になってから漸く私は 「紅色娘子軍」 のVCDを入手することができ、バレエの映像とともに、初めてこの音楽を聴くことができたのだが、それはソナー (嗩吶 、中国チャルメラ) や 中国固有の打楽器(鳴り物)なども取り入れられており、如何にも当時の中国をイメージさせるものであった。
尚、全曲盤の録音としては
王 若忠cond. 中国歌劇舞劇院管弦楽隊
の演奏が大変素晴らしいので、お奨めする。
この演奏では後述のエピソードでも触れる “赤衛隊員五寸刀舞” の場面※でしっかりソナー (嗩吶) を使用している。
※このCDでは ” 第2場 清華控訴 参加紅軍 ” の5'05"あたり(第2場の中盤)から 「赤衛隊員五寸刀舞」 がソナーのソロで始まる。
一般には Trumpet が代奏することも多いようだ。
「紅色娘子軍」 の作曲陣の中心人物は2人ともモスクワに留学して西洋音楽を身につけた作曲家とのことであるが、煌きのない音楽では決してないものの、やはり「時代」臭が強く誰もが飛びつくような魅力的な音楽とも言い難いのが正直なところである。
実際に聴いてみると新たな疑問が。 -筑紫丘高校は、この特異なバレエ音楽の、一体どの部分を演奏したのだろうか?
現在では管弦楽組曲版スコアも出版されていることを確認しているが、当時から 「管弦楽組曲版」 が存在していたのかは不明であるし、何より未知の現代中国音楽に挑むからには相当の決意や思い入れがあったはずである。
そこに、私の興味が尽きることはなかった。
■筑紫丘高校と「紅色娘子軍」の縁 -その劇的な背景とエピソード
疑問と興味を抱いたまま、叙上内容を私が旧ココログ版 「橋本音源堂」 に投稿したところ、何とそれをご覧になった当時の筑紫丘高校の指揮者・谷口 健氏 ( 筑紫丘吹奏楽部OB、現筑紫丘高校吹奏楽部 OB・OG 会「筑吹会」会長 ) よりメールをいただき、当時のいきさつが述べられた資料を頂戴することができた。
そこには1974年当時ならではの背景と、物事に対する烈しい関心と高い感受性、そして並々ならぬ情熱をもって音楽に接する高校生の姿があった。
✔時代背景
1972年は「戦後」日本にとって歴史的な年であった。すなわち5月に沖縄返還、そして9月に日中国交回復が成された年なのである。国交正常化の調印が行われ、ようやく日本と中国の戦争状態が終了したことを記念して、翌1973年からは日中交流事業が活発化した。
福岡市でも高校生による日中交流事業を計画し、一般公募のほかスポーツ・文化交流枠として男女のバレーボー ル・卓球のチームと、吹奏楽団及び合唱団が選出/派遣されることとなったそうである。この当時福岡市の高校にあって吹奏楽コンクールで最高成績であった筑紫丘高校は、諸経緯を経て福岡商業(現福翔高校) と合同バンドを編成して訪中演奏することとなり、3年生16名がこれに参加したのであった。
✔訪中の影響と中国土産
1974年 4 月「福岡市青少年の船 友好訪中団」 として出航した筑紫丘高校吹奏楽部の訪中組は2週間後、「現地での熱烈歓迎にちょっと感化されて帰国した」とのことである。
彼らは中国側の招待で、上海市革命委員会大礼堂での白毛女バレエ団による「紅色娘子軍」公演を全員鑑賞してきており、クラブへのお土産として中国の楽譜とLPレコード、民族楽器(安いおもちゃ)等を持ち返った。
そして直後の5月の筑紫丘高校文化祭では写真や資料の展示と報告会まで開いてみせるとともに、音楽部としてのステージでも 「中国の曲を1曲やります」として 「紅色娘子軍」を演奏したのである。
✔未知の中国楽曲…高校生による編曲で定期演奏会、そして吹奏楽コンクールへ!
指揮者の谷口氏は文化祭での 「紅色娘子軍」の演奏は期待もせずに聞いてみたそうだが、意外にもシンフォニックな曲だったので驚き、定演のプログラムに加える事を許可したそう。編曲したのは当時現役3年生だった吉浦 勝喜氏 (後に東京芸大を経て九州交響楽団コントラバス奏者として、また指揮者として活躍)。
当時の筑紫丘高校において定演は1年間の成果発表にしてコンクール自由曲のセレクションと位置付けられ難曲揃いの極めてハードなものだったが、定演での反響・出来映えを踏まえ ”大逆転” で 「紅色娘子軍」 がこの年のコンクール自由曲に決定したのであった。他に有力候補もある中、決め手となったのは3年生の強い思いや、話題性・独創性が高いことだったそうである。
✔西部吹奏楽コンクール金賞受賞、神戸での全国大会出場は逃すもトップ3入賞
コンクールに向けては全曲で2時間を要する「紅色娘子軍」から新たに数場面をピックアップして編曲の作り変えを行い、練習を通じてテンポやダイナミックス・パートの移動・曲間のつなぎなど次々と改訂を重ねていったが、「口頭での私の無茶ブリにも、編曲の吉浦 勝喜を中心に全メンバーが実に迅速に対応してくれた。」と谷口氏は述懐する。
こうして世界に一つだけの”筑高オリジナル”の「紅色娘子軍」※が誕生したのであった。
※残念ながらこの貴重な譜面は「定演版」「コンクール版」ともに現存しないそうである
福岡支部大会を勝ち抜き、10月に大分市で行われた西部大会で筑紫丘高校は首里高校・嘉穂高校とともに見事金賞を受賞。1校のみであった全国代表には首里高校が選ばれたが、自由曲「紅色娘子軍」の中間部 “赤衛隊員五寸刀舞” の場面では、中国の民族楽器・嗩吶 (ソナー)をそのまま用いて演奏するなどこだわりの演奏は高く評価されたのだった。
✔後日譚
「紅色娘子軍」の終盤には、当時世間を騒がせていた過激派グループの愛唱歌でよど号ハイジャック事件では連合赤軍が機内で歌ったことで知られる “インターナショナル” (國際歌) が現れるため、「なんと大胆な…」「勇気があるなあ…」とささやく人もいたという。
当時はそうした「時代」の真っただ中だったのだ。
一方この1974年には中国中央楽団が初来日し10月30日には福岡公演が開催されたが、谷口氏は部員代表数名とその終演後舞台裏に団員を訪ね、コンクールでの「紅色娘子軍」の録音を聴いてもらったそうだ。
「再生するとあっという間に取り囲まれ、嗩吶 (ソナー) の独奏に入ると大きなどよめきと歓声が起こった。終了後は大拍手と質問責めにあった。」 とのことである。異文化を理解し表現する喜びと、理解される喜びとが溶け合った-。実に尊い瞬間ではなかっただろうか。
-Epilogue-
谷口氏からいただいた資料を拝読し、満載された素敵なエピソードに感嘆した。
まず当時の、中国との相互理解を深め友好関係を築こうとする、穏やかで暖かい感覚が想い出された。今、対中国自体も含め世界は再び緊迫の状況にある。世界が不穏だと音楽も楽しめない。逆に世界が平和で相互尊重の状態にあると、音楽は国とか文化とかの壁を超える豊かなその機能を発揮する-。そのことを改めて痛感させられている。
♪♪♪
また、当時の 「高校生」 は今よりもずっと大人だったと思う。ただ、だとしても国交回復間もない中国に行き、出会った未知の音楽に強い関心を抱いて楽譜とレコードと(民族)楽器を買って帰り、すぐさま吹奏楽に編曲して演奏する-もちろん才能ある者がリードはしたのだろうが、それでも自分たちでやってのけちゃう高校生たちってただ者じゃないと思う。
「高校生」 のポテンシャルは、本来もっともっと高いと認識しておくべきなのだろう。
「紅色娘子軍」みたいな曲を演ろうとする、そしてコンクールの自由曲にしたいと強く思い入れる高校生…シンプルに凄すぎる。だが時代は変わっても、コンクールの自由曲じゃなくても、演奏者にとって「どんな曲を演奏するか」は重大な事項であり続けているだろう。自分たちがやりたいこと、伝えたいことをその楽曲に載せて表現するのだから、当然である。
だからこそ、本当に自分たちに合った楽曲、自分たちが聴衆に聴かせたい楽曲を充分に吟味したいものだ。今はまだ知らないものも含めて、数多ある楽曲の中から何を選ぶべきか?
本来もっとこだわり、追求すべきだと思う。
単に 「昔やったことがあって、良かったから」 「先生が決めたから」 「あの学校が演ってたから」 などではなく…。
♪♪♪
最後に1974年西部大会での筑紫丘高校と首里高校のエピソードを、谷口氏の資料より。
「代表には首里高校が選ばれた。
首里高校の演奏 「エルザの大聖堂への行列 (R・ワーグナー)」 は、全員客席で聴く事ができたのだが、その木管の豊かな響きと丁寧に歌い込んだ演奏は、皆納得できる結果だった。
閉会後、歓喜に沸く首里高校のもとに行き、全員で祝福の万歳三唱をしてさらに泣かせてしまった。この時のメンバーは、いろんな所で万歳をするのが得意だった。」
…なんて素敵なお話だろうか!
かくありたい、あってほしいと願わずにはいられない。
<Originally Issued on 2008.2.14. / Revised on 2024.2.7.>
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